読み応えあり!“軍艦島”の歴史と、日本初のRC集合住宅ができたワケ
日本ではじめて鉄筋コンクリート(RC)造の集合住宅が誕生したのは海上の小島でした。“軍艦島”とよばれるその島に続々と誕生した集合住宅の構造、そしてかつてそこに住んでいた人々の生活は、現在の私たちに、よりよく暮らすためのヒントを与えてくれそうです。第1回目となる今回は、“軍艦島”の歴史をひもといていきましょう。
※本記事は、2013年にマンション・ラボに掲載したものを、一部編集して再掲載するものです。
炭鉱の興隆と島内人口の増加
みなさんは“軍艦島”とよばれる島をご存じでしょうか。正式名称は「端島(はしま)」。九州の長崎港から南西へおよそ17.5kmの沖合に位置する、面積6.3ヘクタール、外周1.2kmほどの小さな島です。
東京ドーム2個分にも満たないこの小さな島に、かつて5,000人を超える人たちが生活していました。当然、全員分の戸建住宅を建てるスペースはありません。そこで、大正時代のはじめころから、この島の人々はアパートで暮らしていたのです。ここは、まさに日本の集合住宅群の先駆けの地といえるでしょう。
そもそもこの島にこれだけ大勢の人が暮らした理由は、ここが石炭の一大採掘地だったためです。石炭が採れることは江戸時代から知られていましたが、本格的な炭鉱として稼働し始めたのは明治時代に入ってからのこと。とくに、三菱社(現・三菱グループ各社)が島の所有権を得ると新たな坑道が次々と開通し、そこで働くために人々が移り住み始めました。
1891年には蒸留水による飲料水が供給され、1893年には三菱社によって尋常小学校が設立されるなど、島内は着々と整備されていきます。また、砕石で護岸を拡張し、島の周囲は少しずつ埋め立てられました。1907年には海底に電線を敷いて本土とつなぎ、電気が通じるようになったのです。その間も人口は増え続け、明治末期には2,000人に達していたといわれるまでになりました。
集合住宅の建設と“軍艦島”という呼称のはじめ
増え続ける人口に応えるため、三菱社は集合住宅の建設を手がけます。当初は江戸時代の長屋を積み重ねたような木造の集合住宅でした。島の面積がせまく、炭鉱という場所柄、火災はもっとも恐ろしいものでした。そのため、建物は木造から、木造とコンクリートを組み合わせた混在造へ移行していったのです。
元号が大正に変わった1916年、軍艦島にRC造の集合住宅、「30号棟」が生まれます。当初は4階建てでしたが、その後増築されて7階建てに。当時としては非常に大きな建築物でした。各部屋の間取りは6畳1間、広さは18平方メートルほどで、145もの世帯が入居していたといいます。トイレは共同で、住人たちは吹き抜けとなっていた廊下の突き当たりにある共同便所を利用していました。
この30号棟はRC造の建物としては日本初のもの。施工側も手探りだったので、この30号棟には所々に不備もみられました。たとえば水はけの問題。屋上に排水溝がなく、窓の戸袋が壁と一体化していたため、激しい雨が降ると壁を伝った雨が戸袋を通って室内に入ってしまったのです。住人たちはゴムホースといった身の回りのものを使って雨の逃げ道を作るなど、自分たちで対策をしていたといいます。
このように、日本最初のRC造集合住宅には未熟な部分がありました。ただし、多くの人々がこの島で暮らすため、RC造集合住宅建設は必要不可欠な解決策だったのです。ですから、この島には30号棟をスタートとしてRC造の集合住宅が次々と建てられていきました。
島が発展を続けるなか、1921年に長崎県の「長崎日日新聞」が端島を紹介しました。当時建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして、記事のなかで“軍艦島”というよび名を使いました。このころから、この島は“軍艦島”とよばれるようになっていったのです。
次々と建てられたおもな集合住宅
30号棟の完成から2年後、さらに巨大な集合住宅「日給社宅」が建てられます。これは16~20号棟までの5棟をひとまとめにした名称で、とくに16号棟と17号棟は30号棟を上回る9階建てという高さでした。それぞれの棟は並列に並び、海に近い側の端が大廊下によって連結された、フォークの先端のような形をしていたのです。
日給社宅は、さまざまな点で30号棟から進化していました。とくに大きな違いは、住人が自由に使うことのできる共用空間が充実していたこと。各棟の廊下やそれぞれの棟を結んだ大廊下は非常に広く、洗濯や子どもたちの遊び場として住人同士のコミュニケーションに利用されたといいます。なかでも、1957年に各家庭に水道が整備されるまで、大廊下には給水タンクにつながる共同の水汲み場があり、人々は日々水を汲みにいきながら自然と交流を深めていたのです。
また、1941年に完成した14号棟(通称「中央社宅」)も見逃せません。この建物最大の特徴は、建物を支える柱から外に飛び出した、張り出し式のベランダです。ベランダは、同じ階にある隣の部屋同士が横につながった「連続ベランダ」とよばれる形状でした。これによって建物の外観は、一気に現代のマンションに近づきました。
そして、1944年には地上10階と地下1階の建物に317戸を擁した端島最大の集合住宅、「65号棟」が完成しました。はじめに建てられたのは北側の7階建て部分(「報国寮」)だけでしたが、1958年まで段階的に増築が施され、最終的には「コ」の字型の建物になりました。さらに、計画段階にはエレベーターを設置する案もあったといいます。上層部には14号棟で建築手法が確立した張り出し式のベランダが備えつけられており、それぞれの部屋の間取りは2K。また、それまでの集合住宅のほとんどは隣の世帯との壁が漆喰仕上げの土壁だったのに対し、65号棟では一部にコンクリートで仕切る、現代のマンションと同じ構造の壁が誕生したのです。
最盛期から衰退、そして無人島へ
太平洋戦争が終結し、日本が高度成長期に入ると、端島から産出される良質な石炭は需要が増加。島内人口もさらに増え続け、ついに1960年には5,000人を突破しました。当時、端島の人口密度は世界でもっとも高かったのです。いつしか島のなかには小中学校や病院、寺院、神社、「昭和館」という名の映画館、理髪店、パチンコ屋、スナックといった、およそ生活する上で求められるほとんどの施設がそろうようになっていました。
しかし、端島の繁栄は瞬く間に失われていきました。その原因は、おもなエネルギーが石炭から石油に代わった「エネルギー革命」でした。1962年に政府が原油の輸入自由化を決めると、石炭の需要が急速に落ち込んでいったのです。1965年には島内で新たな炭鉱が見つかり、にぎわいを取り戻す気配もありましたが、やはり時代の変化に逆らうことはできませんでした。
1974年、ついに端島の炭鉱は閉山のときを迎えます。そもそもこの島の人々は採炭の仕事のために移り住んできていたので、炭鉱の閉山は島に住む理由がなくなることでした。当時すでに2,000人程度まで減少していた島民たちも、同年の4月20日をもって全員が島を離れました。その後、端島は無人島となり、かつて人々が住んでいた建物や生活の跡が残っているばかりです。
このように、“軍艦島”では石炭の採掘のため、限られた土地に大勢で暮らす必要がありました。ですから、日本のほかの地域よりも早くから近代的な集合住宅が建てられたのです。その性能は短い間に進歩し、人々の快適な暮らしに寄与し続けたのです。しかし、住居だけが快適性を追求しても、よりよい暮らしは実現しません。60年もの間、これほどせまい島内に大勢の人々が大きな問題もなく生活できていたのは、住人たち自身の暮らし方にも理由があったはずです。
では、こうした激動の歴史をもつ“軍艦島”で、集合住宅に住んでいた人々はどのような暮らしをしていたのでしょうか。第2回では“軍艦島”における当時の人々の生活をみていきましょう。
▼第二回「軍艦島、実は裕福だった?当時の暮らしを紹介」
▼第三回「無人島・“軍艦島”の、いま、と、価値。」
▼第四回「貴重な体験談!かつての住人が語る、“軍艦島の暮らし”」
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