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無人島・“軍艦島”の、いま、と、価値。

マンション・ラボ編集部です。
本記事をご覧いただき、ありがとうございます。マンション・ラボは、「マンションライフを豊かにする」情報をお届けするメディアです。今回の「軍艦島」は、全4回に分けて、島の歴史や生活、集合住宅での暮らしぶりをご紹介しながら、現代の暮らしのヒントを探していきます。ぜひ、じっくりとご覧ください。

かつて石炭の産出で栄華を極めた“軍艦島”も、無人島になってから約40年という月日が流れました。人の住まなくなった建物は荒れ果て、島に置き去られたかつての住人たちの私物ばかりがもの悲しさを漂わせています。とはいえ、“軍艦島”はそのすべての役割を終えたわけではありません。日本ではじめて生まれたRC造の集合住宅、そしてそこでの人々の暮らしはお金では測りきれない大きな価値を有しているのです。

※本記事は、2013年にマンション・ラボに掲載したものを、一部編集して再掲載するものです。


無人島になってからの“軍艦島”の歩み

1974年の1月15日、島の経済のほぼすべてを担っていた端島炭鉱の閉山式が執り行われ、同年の4月20日にすべての住人の離島が完了しました。その後もかつての住人や釣り人などが島に足を踏み入れることがあったものの、住み着く人間はいなくなり、端島は無人島となったのです。

集合住宅の室内に取り残された家財。ブラウン管のテレビが当時の面影を強く残しています。

その後、島を所有していた三菱マテリアルが端島を長崎県の高島町に無償で譲渡します。しかし、建物の荒廃が進んで崩落の危険性があったため、長らく島への一般人の立ち入りは禁止されていました。

端島に再び注目が集まったのは時代を隔てた2005年のこと。この年、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、その様子が各メディアで紹介されたのです。これを契機に、“軍艦島”の認知度は高まっていきました。

台風などによって基礎部分が削られ、土台部分が露わになってしまっている学校。
こうした崩壊の危険性のある建物も多いそうです。

その後、島内の整備が進んで一定の安全性が確保され、2008年に長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立。2009年より島の一部に、一般の人々の立ち入りが許されます。こうして上陸が解禁されてから、わずか1年で59,000人もの人々が島に足を踏み入れました。

“軍艦島”の新たな魅力

このように現在、“軍艦島”が人々を惹きつける理由には、さまざまな年代に建てられたRC造の集合住宅が密集した町並みがそのまま残る、景観の特異性があります。とくに、島がもつ独自の雰囲気に魅了されたのは、廃墟や廃校、廃工場などに愛着を抱く「廃墟愛好家」たちでした。建物のみならず、島のあちらこちらに残された当時の人々の生活のあとが垣間見える島は、今や愛好家たちの聖地のような存在になっているのです。

写真左)第1回目でも紹介した「地獄段」とよばれた場所の現在の様子。
写真右)30号棟の吹き抜け部分。いずれも寂しく、異質な雰囲気をまとっています。

そんな“軍艦島”は、映画や音楽、小説などさまざまな作品の舞台にもなっています。たとえば、1949年には太平洋戦争中の島の様子を描いた『緑なき島』という映画が公開され、このタイトルは島を象徴する言葉になりました。さらに、2012年に公開された映画『007 スカイフォール』では作中に登場する場面のモデルとなり、視覚効果スタッフが現地で撮影を行いました。島の魅力は現在も色あせることなく、国内外の多くの人々を虜にしているのです。

もちろん、島に残る建物群が持つ歴史的な価値も忘れてはいけません。日本最古のRC造集合住宅である30号棟や、島一番の大きさを誇る65号棟などは、荒廃こそ進んでいるものの、当時の威容をそのままに残しています。時代の変遷とともにRC造の建築技法が確立していった様子を示す実物が残る島は、建築学的な観点からも非常に大きな価値をもっているといえます。

島内最大の集合住宅である65号棟。
中央の広場には雑草が繁茂しているが、建物の圧倒的な存在感は変わっていません。

世界遺産登録へ向けた活動

もちろん、かつて端島で生活をしていた人々にとって、この島はかけがえのない思い出の詰まった場所です。彼らは独自に「全国端島会」という団体を結成し、「閉山10周年記念式典」「25周年祝賀会」など集会を開き、つながりをもち続けました。

島に残されているプレート。
かつての島民たちの、端間に対する思い入れの強さがうかがい知れます。

やがて、そのなかでとくに端島を保存しようとする意識の高い人々が、2003年にNPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」を設立。日本の近代化に大きく貢献した端島を、世界遺産として未来へ残そうという活動が始まったのです。

炭鉱地区に残っている、かつて石炭を運び出したベルトコンベアの支柱。
端島は産業遺産としても、歴史的な価値が大きいといえます。

こうした動きに対し、日本政府も支援を決定。こうして2009年、端島は「九州・山口の近代化産業遺産群-非西洋世界における近代化の先駆け」の一部として世界遺産の暫定リストに記載されました。このリストに載るのは、各国政府が1~10年以内をめどに世界遺産への登録申請を目指すもの。つまり、端島は世界遺産登録へ向けた大きな一歩をすでに踏み出しているのです※。

※2015年世界遺産登録済み。

端島へのアクセス

端島には現在も定期的に観光用の船が出ていて、予約をすれば一般の人も端島に上陸することができます。とはいえ、立ち入ることができるのは観光用の通路が整備された島の一部分のみ。

手前の木造建ての建物は原型を失っていますが、右手にあるRC造の集合住宅はほぼ原形をとどめています。

端島での生活の後を今でもしのぶことができる理由は、建物の多くがRC造の集合住宅だったからでしょう。木造の鉱長社宅は、今や原形をとどめていないのがその証です。とはいえ、住宅とはそこに住む人々の暮らしがあってこそのもの。住民のいなくなったがらんどうの建物は、魂を抜き取られた抜け殻のようでもあります。

共同廊下の様子。柱のコンクリートからは鉄骨が覗き、荒れ果てています。

これまで3回にわたり、日本最古の集合住宅群が今も残る端島を紹介してきました。試行錯誤の末に建てられたそれらの建物は、かつて多くの人々の生活の場となって日本経済の成長を牽引し、今も人々から存在価値を認識され続けています。日本のマンションの黎明期といえるこれらのRC造の集合住宅を実際に目にすることができるのは、とても幸運なことといえます。次回は実際に“軍艦島”に住んでいた方にお話をうかがいます。

最終回「貴重な体験談!かつての住人が語る、“軍艦島の暮らし”」は、2024年5月15日(水)に公開する予定です。お楽しみに!

(過去記事はこちら)
第一回「読み応えあり!“軍艦島”の歴史と、日本初のRC集合住宅ができたワケ」

第二回「読み応え十分!軍艦島、実は裕福だった?当時の暮らしを紹介」

第四回「貴重な体験談!かつての住人が語る、“軍艦島の暮らし”」

写真提供:東健一、芝公園公太郎、『軍艦島会場産業都市に住む―ビジュアルブック水辺の生活誌』(岩波書店)

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